[情報時点:国風時代]
国風時代、都(現旧都)に天原正道の長子として生まれる。公卿にまで出世した父を敬い、その背を追いかけたが、五位学薦院頭に至ったものの父の背には及ばなかった。その後、貴族であった中条桐定の讒言により父が失脚、自身もまた南大和(現那羅)に左遷されることになったが、その直前に学薦院から原因不明の出火があり、中条とその下で働いていた昼護を恨み怨霊と化したとある歴史書は述べている。 辞世の句は「散りたとて わするるなかれ 藤の花 なこそなくとも かたちなくとも」